僕は部屋のかたすみで、ひざを抱えてカーメン・マクレエの歌う AS TIME GOES BY を聴いていた。どうでもいい夏の黄昏時だった。残照が低い角度でアパートの部屋にさしこみ、あなたの横顔を染めあげている。それが記憶の中に残っている彼女との最後の光景だった。
人は死ぬ。必ず。そして此岸と彼岸をしなやかに行き来する。思い出だけが残滓となって心の襞に降り注ぐ。僕は残されたラビリンスの街であなたの頬の輪郭を夢の中でなぞり、安堵する。しかしそれさえも、陽射しで焼けた印画紙のようにやがて陰影が薄れはじめてゆく。
夏が終わるように。
人間は星のかけらなのよ。
あのひとが教えてくれた。人が死ぬと星になるという言葉をそのまま信じる年齢は過ぎたけれど、こうしていると自分が星という細胞でできているような気がする。今頃あのひとが星になっているとしたら、僕と同じだということだ。ここにいても、どこにいても。
みんな順繰りに死んでゆく。巻き物みたいに、織物みたいに。人のからだはムースみたいなものだ。自然から来て、自然に還る。形作られて産まれ、形を崩されて無となる。僕はあの人の顔を指の先だけで触ってみたときのことを思い出した。皮がずるっとすべった。けれど、皮は骨にしっかり張りついていて、剥がれたりはしなかった。夏は僕にこの感触を残して過ぎていった。
湧き上がった雲がみるみる空を覆いつくした。
遠くで雷鳴が響き、やや間をおいて、雨と埃が混じった匂いが車内に入ってくる。
夏のはじまりだった。
R121は日光杉並木を越えて針路をやや北に変え、会津西街道となる。
道はゆるやかなコーナーの続く田舎道となり鬼怒川へと向かう。
助手席の幸恵はぼんやりと車窓の外を眺めていた。
三真館はこのあたりでは老舗の旅館だという。
とはいえバブルがはじけてからというもの、団体旅行の客足が遠のいてしまい暖簾を守るのがやっとだった。
今日も週末だというのに、泊り客は幸恵と良平の他は初老の夫婦が一組と数人の老人会の客だけだった。
二人が部屋に入ると通り雨はやんだ。今はすぐ脇を流れる鬼怒川のせせらぎだけが部屋を満たしている。
夕暮れまでにはやや間があった。
仲居さんがお茶を入れに来て、夕食の案内をして部屋から去ると、二人の間を沈黙が包んだ。
長年寄りそった夫婦が言葉を発しなくてもわかりあえる、といった沈黙ではなく、あきらかに気まずい空気が流れていた。
それを押しのけるように、良平が口を開いた。
「僕たち、やりなおせるかな」
「やりなおすって何を?
まだ何もはじまってないのよ」
恋がはじまってもいないのに修復のしよがない。それはそうだが、良平にはどうしても納得がいかなかった。
良平と幸恵がつきあいはじめて一年がたつ。
なにをもってつきあっているというのかはわからないが、少なくとも二人は週末になるとお互いのアパートを行き来する週末同棲をする仲ではあった。
そんな夫婦のまねごとみたいなことも、一年経つとマンネリ化してくる。
幸恵がふとした瞬間にみせるやるせない表情を良平は気にしはじめていた。
だからこうして一泊のささやかな小旅行を企画したのだ。
また二人を沈黙が包み、宵闇が急速に近づいてきた。
どこかでヒグラシが一度だけ鳴いた。
名づければ、センチメンタル・ジャーニーといったところなのだろう。
僕が旅に出ようと思ったのは、女にふられたことがきっかけなのだから。
ただ、そんな女々しいことは認めたくなかった。
だから、気持ちの切り替えに旅行を選んだだけだと自分に思い込ませようとした。
女とは、1年たらずのつきあいだった。
ありがちな話で、『今度こそ最後の恋だ』と思っていた。
女のほうも、同じことを言っていたはずだ。はずだというのは、別れたことをきっかけに、
つきあっていた頃の重要なポイントの記憶がどんどん消えているからだった。
その代わり、ささいなシーンや会話が僕の胸を絞めつけた。
それから逃れたいがために旅に出たというのもある。
外気が僕の何を変えてくれるかわからなかったが、
とにかく家を飛び出ずにはいられなかった。
「歳を重ねるのが悲しいのは、
人生の残りが少なくなることに対してではなくて、
過ぎ去るものを多く持ってしまうからですねぇ」
ひだまりでうたたねをしているような顔で、春奈さんが言った。
僕はうなづいていいものやら迷った。実感としてないことなので、
ただ若さが失われていくことに対してしかわびしさを感じていなかった。
「過ぎ去るものを多く…でも、苦しいけどそれはしかたないことですよね」
「苦しいうちは、まだ若い証拠ですよ。
私ぐらいになると、過ぎ去ったもののひとつひとつがいとおしくなる。
手のとどかない、いとおしいものが、どんどん増えていくんですよ」
春奈さんは遠くの何かを見ているようだった。
その顔は決して苦しそうには見えなかった。
だから無理しているのではないのだということがわかった。
「そうかもしれませんね。でも僕はまだ、そこまで悟れませんが」
「悟るなんて、一生知らないでいいんですよ。
悟る代わりに人はなにかを手放しますから」
春奈さんは何を手放したのだろう。思ったが聞けず、口ごもる。
そんな僕をみてとったのか、春奈さんが笑顔で聞いてきた。
「今日はこの近くにお泊りで?」
「ええ。この先の静寂荘に」
旅館に戻ったとたん、雨が降り出した。
入り口にいた仲居さんが、真っ赤な傘を持って走ってきてくれた。
みあげる空は水色と灰色が混ざって、ぼんやりとしていた。

■hikari
飛雁有紀(Hikari Yuki)
モノクロと静謐なものに惹かれます。
言葉が一生のナリワイ、コイビト。
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Asymmetry

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かげ(kage)
1986年草の根BBSでネットデビュー。
ニフティサーブを経て、1996年からwebで日記らしきものを公開。
ネットに浮遊する言霊の間をさまよう旅人。
いまだ旅の途中。
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どくだみ
Photo
谷中霊園の猫たち
古びた商店街のアーケードからはSMAPの「世界にひとつだけの花」が流れている。
改札をぬけてあなたは息をきらしかけてきた。
「ごめん、ケーキを焼いてたの」
手には森英恵のハンカチーフに包まれたまだ温もりの残っているブランデーケーキが。
あれから1年が経ち、今年もバレンタインの季節がやってきた。
春一番の吹いたその日。駅には去年のわたしのように恋人を待つ人たちがいた。
あなたが二度と降りることのない駅には、あなたが聴いたこともない中島美嘉の「雪の華」が静かに流れている。
「寂しい」
と呟いたあなたの言葉さえも時は飲み込んで、この世のいっさいはただとうとうと流れてゆく。
冬の陽だまりの匂いとあなたの言葉の欠片(かけら)を拾いあつめて抱いてみる。
もうすぐいつものように、この駅にも夜のとばりがおりるだろう。
kage
バレンタインの由来は、哀しい物語なんだってね。
戦争に行きたがらない兵士たちが結婚を禁止させられてしまい、
それをかわいそうに思ったキリスト教司祭が内密で結婚させていた。
結局司祭は処刑された。その名が“バレンタイン”。
今はそんなことは知らない人たちがチョコレートをあげたりもらったり、
いい傾向だ。やっぱり恋は泣くより笑う方が多いのがいい。
その方がバレンタイン司祭も救われるんじゃないかな。
でも、決断の日になったりもするね。運命の扉が開く?
夜の公園にぼんやり浮かぶ遊具は、ときどき哀しい。
走り回るこどもたち、わらいごえ、陽の光。
そこに見えているのに、暗いんだ。
自分の目が勝手に映像を角膜に乗せているだけ。
バレンタインの目に最後に映ったものは何だったんだろう。
hikari