キミは歪んでるよ。いけしゃあしゃあと言う男の横面にキスをかまして逃げ去る夕暮れ。渋谷の街は原色と出所判断不可能な臭いに包まれているから、雲隠れするには便利だ。センター街のあちこちにすわりこむ連中や、チラシを突き出してくるバイトのやつらの間をぬって走れば、もう私の居所はわかるまい。
なぜ私が歪んでるかといえば、甘えないからだそうだ。甘えるのが女の証だと思うその根拠がわからない。だけどやっぱりかわいい男には違いないから、殴るより唇の感触を残して置き去りにするのが今夜の罰。
ほんとなら今夜高級レストランで食事して、空に刺さるようなホテルの最上階で一夜を明かすはずだったのに。ばーか。私より30も年くってて、なんでも知ってると思っていたのに、肝心なことがわかってなかったのね。今ごろあわてて心臓発作でも起こしてなければいいけど。男は心臓の持病アリ。このまま死なれたら化けて出てきそうなタイプだしな・・と思ったら怖くなったのでハチ公前に戻った。はぐれたらハチ公前に集合。これが男との決まりごとだったから、たぶんそこしかないのではないかと。
案の定、いた。逃げ去ったくせにあっさりと戻った私を見つけるなり、「戻ってくると思った」と言いやがった。でも今度は逃げなかった。さっきのいけしゃあしゃあなときとは違って、ちょっと泣きそうな顔をしていたからだ。なんだか高級レストランという気分ではなくなった私たちは、ロッテリアでエビバーガーセットだけを食べることにした。
「エビ脱ぎって知ってるかい?」
「エビ脱ぎ? なにそれ」
「ボタンをかけたまま、シャツや下着を重ねたまま、エビが脱皮するみたいに脱ぐやり方さ。キミとの思い出もそんなふうにスルリと脱げたらいいのにね。五臓六腑にまで思い出が行き渡っちまってるから無理だけど。オレが死んだら、立ち上る煙でキミの像ができたりしてな」
「やだ、気持ち悪い」
ほんとはもっと甘えたいんだ。でも最近、薬を飲む量が増えたの、私知ってるんだ。だから私がしっかりしなきゃって思った。でもそれがかえって寂しい想いをさせてるのかもしれないね。けど、歪んだままの私でいた方が、心臓より私に意識が向いて、いいのかもしれない。恋する気持ち、心臓が発作を起こさない程度に保っていて。でもね、一気にいきたいときは、最高級の愛情を私に注いでくれればラクになれるよ。
「そろそろ寝具屋さんに行こ」
サクミの言葉で僕は次の季節が来たことを知る。
今は黄色のシーツ。
何度も洗ってクリーム色に近くなっているのは、
それだけ僕たちが愛しあったからだ。
次は当然若草色だろうという僕の予測ははずれた。
3月には菜の花色のシーツ、4月には新緑色のシーツ。
こうして華やいだ自然の上で動物になることが、
この3年間つづいてきたことなのに。
「今年は白にしましょう」
“白・・?
僕がどんな想いをしてサクミといっしょになったと思ってる?”
なぜ白でこんなにざわめくのか。
僕たちがあらゆるものを裏切って生活を共にしたとき、
毎日毎日白い菊がアパートに送られてきた。
そのときサクミが「白はタブーな色ね」と泣いた。
それ以来、白は禁句にさえなっていたのだ。
その白を次のシーツの色に・・?
僕はよほど切羽詰った顔をしていたらしい。
「シュウ? どうしたの?」
冷たい手で頬に触れられて、我に返った。
「だって、白って・・」
サクミが、“あぁ”という表情になった。
「だからこそ白を使いたいの。もう、白解禁にしよう?
白いシーツを巻いてウエディングドレスごっこしよ?」
そういえば、僕たちの生活には、色のあるものしか存在しない。
白いお皿も1枚もないし、白いカップもひとつもない。
「白いシーツを買おう。
それと、ごっこじゃなくて、
ほんとのウエディングドレス着せてあげるよ」
ここはデパートの寝具売り場だというのに、
僕は思いきりサクミを抱きしめた。
でも僕にとっての“白”はサクミなのだと、
どんな色もサクミの前では褪せてしまうのだと、
今夜、白いシーツの上で告げるつもりだ。
人間は星のかけらなのよ。
あのひとが教えてくれた。人が死ぬと星になるという言葉をそのまま信じる年齢は過ぎたけれど、こうしていると自分が星という細胞でできているような気がする。今頃あのひとが星になっているとしたら、僕と同じだということだ。ここにいても、どこにいても。
みんな順繰りに死んでゆく。巻き物みたいに、織物みたいに。人のからだはムースみたいなものだ。自然から来て、自然に還る。形作られて産まれ、形を崩されて無となる。僕はあの人の顔を指の先だけで触ってみたときのことを思い出した。皮がずるっとすべった。けれど、皮は骨にしっかり張りついていて、剥がれたりはしなかった。夏は僕にこの感触を残して過ぎていった。
名づければ、センチメンタル・ジャーニーといったところなのだろう。
僕が旅に出ようと思ったのは、女にふられたことがきっかけなのだから。
ただ、そんな女々しいことは認めたくなかった。
だから、気持ちの切り替えに旅行を選んだだけだと自分に思い込ませようとした。
女とは、1年たらずのつきあいだった。
ありがちな話で、『今度こそ最後の恋だ』と思っていた。
女のほうも、同じことを言っていたはずだ。はずだというのは、別れたことをきっかけに、
つきあっていた頃の重要なポイントの記憶がどんどん消えているからだった。
その代わり、ささいなシーンや会話が僕の胸を絞めつけた。
それから逃れたいがために旅に出たというのもある。
外気が僕の何を変えてくれるかわからなかったが、
とにかく家を飛び出ずにはいられなかった。
「歳を重ねるのが悲しいのは、
人生の残りが少なくなることに対してではなくて、
過ぎ去るものを多く持ってしまうからですねぇ」
ひだまりでうたたねをしているような顔で、春奈さんが言った。
僕はうなづいていいものやら迷った。実感としてないことなので、
ただ若さが失われていくことに対してしかわびしさを感じていなかった。
「過ぎ去るものを多く…でも、苦しいけどそれはしかたないことですよね」
「苦しいうちは、まだ若い証拠ですよ。
私ぐらいになると、過ぎ去ったもののひとつひとつがいとおしくなる。
手のとどかない、いとおしいものが、どんどん増えていくんですよ」
春奈さんは遠くの何かを見ているようだった。
その顔は決して苦しそうには見えなかった。
だから無理しているのではないのだということがわかった。
「そうかもしれませんね。でも僕はまだ、そこまで悟れませんが」
「悟るなんて、一生知らないでいいんですよ。
悟る代わりに人はなにかを手放しますから」
春奈さんは何を手放したのだろう。思ったが聞けず、口ごもる。
そんな僕をみてとったのか、春奈さんが笑顔で聞いてきた。
「今日はこの近くにお泊りで?」
「ええ。この先の静寂荘に」
旅館に戻ったとたん、雨が降り出した。
入り口にいた仲居さんが、真っ赤な傘を持って走ってきてくれた。
みあげる空は水色と灰色が混ざって、ぼんやりとしていた。
バレンタインの由来は、哀しい物語なんだってね。
戦争に行きたがらない兵士たちが結婚を禁止させられてしまい、
それをかわいそうに思ったキリスト教司祭が内密で結婚させていた。
結局司祭は処刑された。その名が“バレンタイン”。
今はそんなことは知らない人たちがチョコレートをあげたりもらったり、
いい傾向だ。やっぱり恋は泣くより笑う方が多いのがいい。
その方がバレンタイン司祭も救われるんじゃないかな。
でも、決断の日になったりもするね。運命の扉が開く?
夜の公園にぼんやり浮かぶ遊具は、ときどき哀しい。
走り回るこどもたち、わらいごえ、陽の光。
そこに見えているのに、暗いんだ。
自分の目が勝手に映像を角膜に乗せているだけ。
バレンタインの目に最後に映ったものは何だったんだろう。
hikari