昼のチャイムが鳴った。
亜紀はやりかけのエクセルを閉じると、ランチに出かける同僚を横目で見ながら屋上に上った。
予定ではエア・インディアAI305便がテイクオフする時間だ。
視界の中にはすでに葉桜になった新緑のうねりの向こうに4月の弛緩した空が広がっていた。
機は高度を少しずつ下げる。眼下にかすかな灯火が見えてきた。
あれが印度か。直樹がそんな感慨にひたる間もなく、インディラ・ガンジー空港に着陸した。
むわっとする熱気にクレゾールとスパイスを足して二で割ったような香りが混じる。
イミグレーションを出ると空港の職員が5mぐらいの間隔ならび「デリ、デリ」とつぶやいている。
拡声器を使わずに人海戦術でアナウンスするなんてさすが印度だ。
「なんで印度なの。しかも会社まで辞めて……」
亜紀は泣き出しそうな顔で聞いた。
しかも婚約までなかったことにしてほしいと直樹は言うのだ。
「いや、どうにも自分でもわからないんだけれどね」
「すべてを初期化してから行きたくなったんだよ」
空港を出ると人とクルマの多さに圧倒された。
一斉に寄ってくる物売りたちをしりぞけて、直樹は通りに出ると、なるべく実直そうな流しのオート・リキシャに声を掛けた。
「コンノート広場のアシュラホテルまで」
アシュラホテルはニューデリーでも中級以上の宿。
贅沢をするつもりはなかったが、印度の第一日目の夜だけはおちついたところに泊まりたかった。
だからエアチケットを取ってくれたマイナーな旅行代理店に頼んで適当な宿を予約しておいたのだ。
ホテルマンについて長い廊下を歩き、部屋に通される。旧式のエアコンがうなりをあげていた。
これまた年代物のダイヤルチューナー式のモノクロテレビがある。おもしろいから観ろと、おせっかいなホテルマンがスイッチを入れる。
チューニング・ダイヤルをあわせると、画面にはノスタルジックな日本のちゃんばら映画が流れていた。音声はヒンディー語に
英語の字幕という訳のわからない代物だった。
亜紀は自分のデスクに戻るとwebでデリーの街を検索してみた。
画面にはオールドデリーのバザールの画像。混沌とした町並みが映し出された。
灼熱の国。まだ見ぬ印度とそこを歩くちょっと求道者のような顔つきの直樹を思い浮かべた。
「明日、アーグラー行きのバスツアーがある。エアコン付きのデラックス・バスでしかも英語のガイドが付くんだ」
「いいか、ヒンディー語じゃなくて英語だ。すごいだろ」
ホテルマンは部屋に居座って営業に余念がない。
直樹は適当にあしらってホテルマンを部屋から追い出しテレビのチャンネルを換えた。
スタジオの映像なのだろうか、シタールの演奏が延々と流れていた。
固定カメラ2台をときたま切り替えるだけという、シンプルなカメラワークが日本のテレビを見慣れた直樹には新鮮だった。
スポットライトの中で淡々とシタールを弾きつづける老人は長くて白い髭をたくわえていた。
どれぐらい聴きつづけたのだろう。さきほどから弦の音が妙に心の襞をくすぐっている。
音が跳ね、直樹もそれに合わせて白日夢を見た。
コンパクトディスクの裏側みたいな虹の帯が弦の音と同期して波をうち、fairy taleが舞い降りてくる。
ナチュラルハイの嵐が過ぎ去った後も直樹はしばらく動けなかった。
その時やっと印度に来たんだと実感がわいた。
レースのカーテン越しに朝日がさしこんでくる。
亜紀はそのまぶしさで目覚めた。
次第に覚醒してくる意識の中で、自分の部屋ではないことに気がついた。
昨夜はショットバーで飲んでから、直樹の部屋に寄ったのだった。
ベッドサイドのテーブルには飲みかけのワイン。
グラスの中には桃の花びらが浮いていた。
キッチンの方から珈琲の香りが漂ってきた。
「おはよう、亜紀」
「ハッピー・バースデー」
直樹は珈琲をいれる手をとめて亜紀に声をかけた。
春まだ浅い三月。つぼみをつけた桜の枝が窓の外で揺れていた。
これってすごく幸せな瞬間かもしれない。百回のキスよりも。
シーツの感触を確かめながら、亜紀はふとそう思った。
駅のポスターの中で満開の桜がゆれていた。
あなたがいつか見たいと言った高遠の桜だった。
押し流されてゆく人波の中でそこだけが艶やかだった。
日常のうねりに身をまかせているうちに、また桜の季節が巡ってきた。
墓守の女将が言う。
「桜の花を見て旅立つ人は幸せですよ」
「西行ですか」
女将は少しはにかむように微笑んだ。
僕は向きなおって花を捧げた。
春、彼岸。どこかで子供の声がした。
僕は部屋のかたすみで、ひざを抱えてカーメン・マクレエの歌う AS TIME GOES BY を聴いていた。どうでもいい夏の黄昏時だった。残照が低い角度でアパートの部屋にさしこみ、あなたの横顔を染めあげている。それが記憶の中に残っている彼女との最後の光景だった。
人は死ぬ。必ず。そして此岸と彼岸をしなやかに行き来する。思い出だけが残滓となって心の襞に降り注ぐ。僕は残されたラビリンスの街であなたの頬の輪郭を夢の中でなぞり、安堵する。しかしそれさえも、陽射しで焼けた印画紙のようにやがて陰影が薄れはじめてゆく。
夏が終わるように。
湧き上がった雲がみるみる空を覆いつくした。
遠くで雷鳴が響き、やや間をおいて、雨と埃が混じった匂いが車内に入ってくる。
夏のはじまりだった。
R121は日光杉並木を越えて針路をやや北に変え、会津西街道となる。
道はゆるやかなコーナーの続く田舎道となり鬼怒川へと向かう。
助手席の幸恵はぼんやりと車窓の外を眺めていた。
三真館はこのあたりでは老舗の旅館だという。
とはいえバブルがはじけてからというもの、団体旅行の客足が遠のいてしまい暖簾を守るのがやっとだった。
今日も週末だというのに、泊り客は幸恵と良平の他は初老の夫婦が一組と数人の老人会の客だけだった。
二人が部屋に入ると通り雨はやんだ。今はすぐ脇を流れる鬼怒川のせせらぎだけが部屋を満たしている。
夕暮れまでにはやや間があった。
仲居さんがお茶を入れに来て、夕食の案内をして部屋から去ると、二人の間を沈黙が包んだ。
長年寄りそった夫婦が言葉を発しなくてもわかりあえる、といった沈黙ではなく、あきらかに気まずい空気が流れていた。
それを押しのけるように、良平が口を開いた。
「僕たち、やりなおせるかな」
「やりなおすって何を?
まだ何もはじまってないのよ」
恋がはじまってもいないのに修復のしよがない。それはそうだが、良平にはどうしても納得がいかなかった。
良平と幸恵がつきあいはじめて一年がたつ。
なにをもってつきあっているというのかはわからないが、少なくとも二人は週末になるとお互いのアパートを行き来する週末同棲をする仲ではあった。
そんな夫婦のまねごとみたいなことも、一年経つとマンネリ化してくる。
幸恵がふとした瞬間にみせるやるせない表情を良平は気にしはじめていた。
だからこうして一泊のささやかな小旅行を企画したのだ。
また二人を沈黙が包み、宵闇が急速に近づいてきた。
どこかでヒグラシが一度だけ鳴いた。
古びた商店街のアーケードからはSMAPの「世界にひとつだけの花」が流れている。
改札をぬけてあなたは息をきらしかけてきた。
「ごめん、ケーキを焼いてたの」
手には森英恵のハンカチーフに包まれたまだ温もりの残っているブランデーケーキが。
あれから1年が経ち、今年もバレンタインの季節がやってきた。
春一番の吹いたその日。駅には去年のわたしのように恋人を待つ人たちがいた。
あなたが二度と降りることのない駅には、あなたが聴いたこともない中島美嘉の「雪の華」が静かに流れている。
「寂しい」
と呟いたあなたの言葉さえも時は飲み込んで、この世のいっさいはただとうとうと流れてゆく。
冬の陽だまりの匂いとあなたの言葉の欠片(かけら)を拾いあつめて抱いてみる。
もうすぐいつものように、この駅にも夜のとばりがおりるだろう。
kage